昭和54年農芸科卒 仁義 修さん
みなさんこんにちは、昭和54年農芸科卒の仁義修です。現在農芸高校同窓会で、会計監査を務めています。趣味は、音楽活動、ランニング、英会話、バスフィッシングです。さて、この年齢になって同窓会にかかわりを持つようになったきっかけは、同級生であった元A科の岡田先生から「仁義、同窓会の役員足らんので頼むわ~。」とお誘いを受けたからです。学生の時も卒業してからも、お恥ずかしい話でありますが、同窓会の存在をまったく意識していませんでした。そしてまさか自分が、役職を引き受けるなんて想像もしておりませんでした。ただ同窓会のお手伝いをしているうちに、農芸高校のユニークさと素晴らしさに改めて触れることができました。それは、農芸高校には農芸高校を卒業した先生や実習助手職員の方々が多くいらっしゃって、その方々の思いが農業を学ぼうとする生徒の皆さんのモチベーションや絆を作っているところです。
私自身の農芸学生時代のお話をすると、1年の2学期まで軽音楽部に所属して、ギターを弾いたり歌ったりと文字通り青春を謳歌していました。顧問の先生は生物の奥田先生でした。ところが、何を思ったか、多分エネルギーが余っていたのでしょう…1年の冬休みからラグビー部に入部しました。校内で一番しんどそうな部活を選ぼうと思ったのも事実ですが、入部してそのハードさに驚きました。その当時、ラグビー部はZ科、P科は野球部みたいな見えない境界線があり、正直一人で強面のラグビー部の門を叩くのには勇気がいりましたが、練習を続けているうちにZ科の諸先輩がたに可愛がられ、Z科の同学年の友達も増えて、科の枠を越えて友達や知り合いがたくさんできました。
あの当時のラグビー部顧問は体育教官の小林先生で、朝練から始まり夕暮れまで楕円球を追いかける日々で、正直農業実習は単位ぎりぎりの時間しかやっていませんでした。^^; ただ、あるクラスメイトが、私のラグビーへの傾倒に興味を抱いたのか、2年生になってラグビー部に入部してきました。今では信じられないのですが、彼が入部してからは毎日毎日練習に明け暮れ、テスト期間になるとライバルに負けまいと必死になって勉強するストイックな生活を送り、青春ドラマさながら彼とはラグビーも勉強も張り合う間柄になりました。
そんなラグビーに明け暮れる毎日でしたが、練習が厳しく部員が集まらないという寂しい一面もありました。でも、ちょっと自慢できるのが、ラグビー部メンバー3人と農芸科のクラスメイト一人を加えてロックバンドを結成したことです。3年生の農芸祭では軽音部に交じって、講堂で30分くらい演奏させてもらいました。その興奮が冷めやらず、その日のうちに農芸科の先生に掛け合って農芸祭2日目に作物倉庫で特別にライブをさせてもらいました。もちろん色々と規則はあったと思いますが、作物倉庫の2階を使用させてもらったことは、何物にも代えがたい僕の音楽ライフの1ページです。それが高じてか、還暦を過ぎた今もファンク・ロック風のバンドを続けています。 今振り返ると、農芸高校で一番学んだ事は「一生懸命」という事だったように思います。
さて、卒業後は父が経営する「看板製作の会社」に就職しました。途中で音楽の道への夢が捨てられず脇道にそれた数年間がありましたが、その時も1日8時間労働よろしく、ギターを8時間以上弾く事を日課にしていました。その割にはあまり上手くならなかったので、結局は結婚を機に父の経営する会社へ尻尾を丸めて帰ってきました。そして30年ほど前から社長をやっています。看板屋の仕事ってどんな仕事?と興味を持たれる人もいると思うので、うちの会社のホームページのURL記しておきます。 良かったら覗いてやってください。 https://www.daikan.ne.jp/
当社は高品質を売りにしている看板屋で、欧米の高級ブランド数社から直接製品指定を受けるようになりました。大阪市大正区にある工場に、某ブランドのディレクターご一行がパリの本社から見学に来られたりと、おとぎ話のようなこともあります。今では売上の約60%がブランド向けの仕事で、そして全体の25%が輸出となっています。
「どうして、一看板屋が代理店も介さず自社の力で海外から受注がもらえるの?」と聞かれることがあります。理由を挙げると色々あると思いますが、「まずはやってみる事にあまり躊躇しないから。」が最大の理由だと思います。ずいぶん前の事ですが、1997年自分で会社のホームページを作ってみました。デザインもイマイチでページを作り上げる技術も稚拙でしたが、インターネット=国境を超えるものというアイデアがあったので、下手な英語を駆使して英語のページも作りました。するとどうでしょう・・・2か月程してイスラエルからEmailが届いて、「こんな看板作れる?」という問い合わせが来ました。もちろんOKと返事をして、その仕事を引き受けました。その後数回のお仕事もいただけました。 こんな風に躊躇をあまりしない。思いついたアイデアをとりあえずやってみるという姿勢は、農芸高校での「なんでも一生懸命」(農業実習は除く^^;)から培ったものかもしれません。
21世紀に入って早や20年余り、今すごいスピードで世の中は進んでいると感じています。テクノロジーがどんどん進化して、看板業を取り巻く環境が変わり、伝統的な価値が失われてしまう。情報が溢れかえり、目標を選択することすらも難しくなる。ほんとうに大変な時代です。そこで、うちの会社では「未来サイン」というコンセプトで新しい製品を開発し始めました。3本柱があって、一つは看板とプロジェクションマッピングの融合。二つ目は環境にやさしいプラスチックの開発、現在はホタテガイの貝殻をプラスチックに50.1%混ぜた材料を作り、環境にやさしい看板づくりを提案しています。3つ目は看板のIoT化。みんなが知っているQRコードを使ったインドアナビゲーションで、スマートフォンでQRコードを読み込むとその施設内の地図が現れ、自分の行きたい場所を検索し入力すると、行き先案内をしてくれるというシステムです。よかったら、農芸祭にでも使ってみてください。(^^)
伝統が伝統として後世に残るのは、伝統が進化を続けているからだ。進化をやめた伝統は消えてしまうという言葉を聞いたことがあります。本当にそうだと思います。多分間違いなく、皆さんが勉強されている農業を裾野とする分野についても、同じようなことが沢山起こっています。ただ、時代が変わっても農業の持つ重要性は変わりません。今まで以上に周りで起こっている出来事に関心や興味をもって、思いついたアイデアはどんどん試しながら、明るい未来を築いて行きましょう。